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最高裁判所大法廷 昭和26年(あ)1688号 判決 1955年6月22日

主文

本件各上告を棄却する。

理由

被告人竹内景助外一一名に対する東京高等検察庁検事長佐藤博の上告趣意、被告人竹内景助の弁護人等及び同被告人本人の各上告趣意は、末尾添付の各上告趣意書記載のとおりである。

被告人等に対する東京高等検察庁検事長佐藤博の上告趣意について

論旨は、原判決は刑訴三七九条の解釈を誤り、同条に関する高等裁判所の判例と相反する判断をしたものであると主張するのである。すなわち、原判決は第一審の訴訟手続に関し次の三個の点に訴訟法違反があることを判示している。その第一点は、第一審公判において検察官の起訴状の朗読に先だち、被告人等及び弁護人等の、本件は強制拷問に基く被告人等の自白に基いて起訴されたものであるから無効の起訴であるとの主張及び本件は政治的陰謀に基き捏造されたものであるから公訴の取消を求める旨の各発言を許容したことは、第一審裁判所が訴訟指揮を誤り、訴訟手続の順序を紊り、起訴状朗読前に裁判官に偏見または予断を生ぜしめる虞のある事項の陳述を許したものであって訴訟法違反である。第二点は、第一審において公判廷外で被告人等から本件事案についての事実上の陳述を含む上申書一〇通を受理し、これを公判廷で検察官に示し或は検察官の意見を求める等の法定の手続をしないで、これを訴訟記録に編綴して閲覧審査し得る状態においたことは、証拠書類の取扱に関する訴訟法違反である。第三点は、第一審において検察官から公判期日における証人の供述の証明力を争うため刑訴三二八条により提出した同証人の検察官に対する供述調書を、同条の制限に反して他の証拠である裁判官の同証人に対する尋問調書の信憑力を否定する資料に供したことは訴訟法違反である。と各判示しているのである。しかるに原判決は、刑訴三七九条にいわゆる「訴訟手続に法令の違反があってその違反が判決に影響を及ぼすことが明らかであること」の場合に当るためには、第一に右法令違反と判決の誤謬との間に客観的な相当因果関係があり、この法令違反があったため当該誤謬が生じたことが明らかに判断され、第二にしかもその誤謬が重大で判決主文及び法令の適用に変更を生ずる場合であることを要するものと解釈し、もって以上の前提の下に、原判決は本件第一審の審理の経緯、証拠関係等を具体的に検討考察した結果、前示の各訴訟法違反と第一審判決との間には前示因果関係が認められず、従って前示の各訴訟法違反がその判決に影響を及ぼしたことが明らかでないと論断し、もって検察官の控訴趣意を排斥しているのである。しかし、刑訴三七九条にいう法令違反が判決に影響を及ぼすことが明らかであるか否かは、影響を及ぼしたか否かの事実判断の問題ではなく、いやしくも法令違反が存する場合に、それが判決に影響を及ぼすべき性質のものであるか否かの価値判断の問題である。従って原判決が法令違反と判決の誤謬との間に現実な因果関係の存することを要するものと判断して検察官の控訴趣意を排斥したことは、刑訴三七九条の解釈を誤った違法があり、そして同条の解釈に関する多くの高等裁判所判例と相反するものであると主張する。

よって案ずるに、刑訴三八四条により控訴理由の一とされている同法三七九条の場合は、その前二条(三七七条三七八条)のいわゆる絶対的控訴理由に当る事由以外の「訴訟手続に法令の違反があってその違反が判決に影響を及ぼすことが明らかであること」と規定しており、従って訴訟手続に法令違反があっても、その違反が積極的に判決に影響を及ぼすことが明らかでない限り、同法三七九条の控訴理由とならないことを規定したものと解すべきものであって、旧刑訴四一一条が「法令ニ違反シタルコトアリト雖判決ニ影響ヲ及ホササルコト明白ナルトキハ之ヲ上告ノ理由ト為スコトヲ得ス」と規定し、もって消極的に判決に影響を及ぼさないことが明白な法令違反についてのみ上告理由とならないことを規定したのとは、異なるところがあるのである。従って刑訴三七九条の場合は、訴訟手続の法令違反が判決に影響を及ぼすべき可能性があるというだけでは、控訴理由とすることはできないのであって、その法令違反がなかったならば現になされている判決とは異なる判決がなされたであろうという蓋然性がある場合でなければ、同条の法令違反が判決に影響を及ぼすことが明らかであるということはできないのである。そして以上の判定については、絶対的控訴理由(三七七条三七八条)に当る場合は常に相当因果関係があるものと訴訟法上みなされているものと解すべきであるが、三七九条の場合には、裁判所が当該事件について具体的に諸般の情況を検討して判断すべき問題であって、或る訴訟手続の法令違反は当然に判決に影響あるものと解し、或はその影響の可能性があれば足ると解するがごときは、同条の法意に反するものといわなければならない。また判決に影響を及ぼすことが明らかでない訴訟手続の違法があったからといって、その判決が憲法三一条にいわゆる法律の定める手続によらなかったものであるということのできないのはいうまでもないところである。

されば、原判決が第一審の訴訟手続中、上示所論指摘の違法があることを認めながら、第一審の審理の経緯、証拠関係等を具体的に検討して、右の違法と判決との間に事実上の因果関係が認められず従って右の違法が判決に影響を及ぼしたことが明らかとはいえないから適法な控訴理由とならない旨判示したことは正当であり、刑訴三七九条に違反するものではない。所論引用の高等裁判所各判例中、以上説示の趣旨に反するところは変更せらるべきものであるから、所論判例違反の主張は採用すべき限りでない。

被告人竹内景助の弁護人小関藤政の上告趣意第一点、同今野義礼の上告趣意第二点、同井本台吉、及び草野治彦の上告趣意第二点、同上村進の上告趣意第二点、同吉田三市郎外四三名の上告趣意第九点について

論旨は要するに、刑法一二七条は、一二五条の罪を犯し因て汽車電車の顛覆破壊又は艦船の覆没破壊を致した者について一二六条一項二項の例に従って処断する旨を規定したに止まり、その結果人(殊に船車外の人)を死に致した場合について同条三項の例によるべきことを規定しているものではない。なお一二七条にいわゆる汽車電車とは一二五条の行為により顛覆破壊せしめられた汽車電車をいうのであって、同条の犯行の手段として供用された汽車電車を含まない。しかるに原判決は、被告人竹内景助が無人電車を暴走せしめて電車の往来の危険を生ぜしめ、因てその無人電車を破壊しその際附近に居合わせた人々を死に致した旨の犯罪事実に対し、一二七条一二六条三項を適用しその所定刑中死刑を選択処断したものであって、すなわち原判決は一二七条の解釈適用を誤った違法があり、法律の明文なきにかかわらず刑罰を科したものであって、憲法三一条に違反すると主張する。

よって案ずるに、一二七条は、一二五条の罪を犯し因て汽車電車の顛覆又は破壊の結果を発生せしめた場合、一二六条の例によって処断すべきことを規定している。この法意は、右の結果の発生した場合に一二六条一項二項の例によって処断すべしとするものであるばかりでなく、汽車電車の顛覆又は破壊によって致死の結果を生じた場合には、また三項の例によって処断すべきを定めたものと解するを相当とする。けだし一二七条には右致死の結果の発生した場合について特に明記するところがないことは、所論のとおりであるが、同条が「前条ノ例ニ同シ」と規定して、前条三項を除外せず、また「前条第一項第二項ノ例ニ同シ」とも規定していないことは、文理上当然に、一二六条各項所定の結果の発生した場合には、すべて同条項と同様処断すべきものであることを示しているからである。次に、一二六条は人の現在する汽車電車の顛覆又は破壊の結果の発生につき故意ある場合を規定するものであるのに反し、一二七条は広く一二五条の罪の結果犯について規定するものであるのにかかわらず、その処断については一二六条一二七条の間に差異がないことになるのであるが、このことは、一二五条の汽車又は電車の往来に危険を生ぜしめる所為は、本質上汽車又は電車の顛覆若しくは破壊、延いては人の致死の結果等の惨害を惹き起す危険を充分に包蔵しているものであるから、右各重大な結果が発生した以上は、一二六条各項の場合に準じそれと同様に処断することを相当とする法意と解すべきである。なお一二六条三項にいう人とは、必ずしも同条一項二項の車中船中に現在した人に限定すべきにあらず、いやしくも汽車又は電車の顛覆若しくは破壊に因って死に致された人をすべて包含するの法意と解するを相当とする。けだし人の現在する汽車又は電車を顛覆又は破壊せしめ、若しくは汽車又は電車の往来の危険を犯しもって右と同様の結果が発生するときは、人命に対する危害の及ぶところは、独り当該車中の人に局限せられるわけのものではないからである。また一二七条にいわゆる汽車又は電車とは、一二五条の犯行に供用されたものを含まないと解すべき理由は存しない。

されば、原判決が被告人竹内景助の犯罪事実として、同被告人は三鷹電車区構内に入庫中の人の現在しない電車を発進させ、運転者なしでこれを暴走せしめ同構内出口附近で脱線させ、これによって電車の入出庫を妨害しようと企て、その電車の発進操作をなし、無人でこれを暴走せしめて電車の往来の危険を生ぜしめ、同電車は同被告人の予期に反して三鷹駅下り一番線上に驀進し同駅南改札口前の下り一番線車止に衝突して脱線破壊し、その破壊に際し附近に居合せた秦俊次外五名を死に致らした事実を肯認した上、これに対し刑法一二七条一二六条三項を適用処断したことは適法であるといわなければならない。それ故所論憲法三一条違反の主張はその前提を欠くものであり、論旨はすべて採用できない。

被告人竹内景助の弁護人吉田三市郎外四三名の上告趣意第一〇点について

論旨は、原判決は、被告人竹内景助が刑法一二五条の罪を犯し因て予期に反して電車を破壊し人を死に致らしめた事実を認定し、一二七条一二六条三項を適用して同被告人を死刑に処したのであるが、このような結果の発生につき故意のない結果的加重犯(特に一二七条の致死の場合は二重の結果犯である)に対し死刑を定めたものとする一二七条は、憲法一三条並びに残虐な刑罰を禁止する同三六条に違反するものであると主張する。

よって案ずるに、わが刑法が刑罰として死刑を存置するのは、死刑の威嚇力によって重大犯罪に対する一般予防をなし、死刑の執行によって特殊な社会悪を根絶し、これによって社会を防衛せんとするものであって、結局社会公共の福祉のため死刑制度の存置の必要性を承認しているものと解せられるのである。そして死刑の存置は憲法一三条三六条に違反するものでないことは、既に当裁判所判例の示すところである(昭和二二年(れ)第一一九号、同二三年三月一二日大法廷判決、判例集二巻三号一九一頁)。そして刑法一二五条の汽車又は電車(若しくは艦船)の往来危険罪は高速度交通運輸機関の運行を危殆ならしめ、その結果は不測の惨害を惹き起す虞ある犯罪として、その結果の最も重い汽車電車の顛覆又は破壊(若しくは艦船の覆没又は破壊)等により人を死に致した場合においては、一二七条をもって一二六条三項の例により死刑に処し得べきものと定めているのである。すなわち、刑法一二七条は一二五条の犯罪に内在する広汎な危険性が具体的に実現された危害の程度に応じ、その処断の軽重を区別しようとするものであり、単なる過失致死の罪に対して死刑を科するものとは全く趣を異にするものであって、違憲とすることはできない。論旨は理由がない。

被告人竹内景助の弁護人井本台吉、及び草野治彦の上告趣意第一点、同吉田三市郎外四三名の上告趣意第三点、被告人竹内景助の上告趣意中右同論点について

論旨は、原審において、被告人竹内景助に対し第一審の言渡した無期懲役刑の量刑の当否を判断するに当り、何等新たな事実の取調をしないで量刑軽きに過ぎるとして第一審判決を破棄した上刑訴四〇〇条但書により自判して死刑を言渡したのは、刑訴法の精神に反し違法であるのみならず、かかる手続により死刑を科することは個人の生命の尊貴を忘れたものであり、かかる裁判は公平な裁判所の裁判ということはできないものであって、憲法一三条三一条三七条一項に各違反すると主張するのである。

よって案ずるに、控訴審において、第一審判決の事実誤認量刑不当その他の控訴理由の存否を審査するに当り、新たな事実の取調をなすべきか否かは、刑訴三九三条一項但書の場合の外は、控訴裁判所の裁量判断により得べきものであって、四〇〇条但書に「原裁判所及び控訴裁判所において取り調べた証拠による」ことを規定しているからといって、控訴裁判所が特にその必要なしと認める場合でも必らず新たな証拠の取調をした上でなければ自判できない旨を規定しているものと解すべきではない。そして右自判の制度は、控訴審が本来事後審として第一審判決の当否を判断するものであることに対し、例外的に続審による判決手続を認めたものであって、控訴審において記録調査及び事実取調の結果第一審判決を破棄すべき理由ありと認め、しかもそれ以上審理をなすまでもなく、判決をなすに熟していると認めた場合においても、なお事件を第一審に差し戻しまたは移送しなければならないものとするときは、徒らに無用な手続を重ねるに過ぎないものといわなければならない。されば控訴審における自判は、たとえその科刑が被告人に不利益に変更される場合であっても、自判をすることが必ずしも刑訴法の精神に反するということはできないのである。また自判は被告人の審級の利益を失わしめるものということもできない。ただ自判する場合、殊に刑を重く変更する場合のごときは、控訴審が直接審理を経ていないことを自省して慎重を期さなければならないわけであって、すなわち客観的に見て、自判の結果が差戻または移送後の第一審判決よりも被告人にとって不利益でないということが、確信される場合でなければならないこと勿論である。若しこの確信が相当と認められる場合ならば、自判により第一審の無期懲役刑を死刑に変更することもまた必しも違法ということはできないのである。論旨は理由がない。

被告人竹内景助の弁護人布施辰治の上告趣意第三点、同上村進の上告趣意第一点、同吉田三市郎外四三名の上告趣意第二点について

論旨は、原判決は被告人竹内景助の自白のみによって有罪を認定した違憲違法があると主張するのであるが、原判決は同被告人の本件犯罪事実を肯認するに当って、第一審判決挙示の同被告人の自白その他多くの証拠を綜合して有罪を認定しているものであることは、原判決の判文上明らかである。ただ右自白以外の証拠によっては、本件電車の発進が同被告人の作為に出でたものであるという点につき、これを直接証拠だてるもののないことは所論のとおりである。しかし同被告人の自白以外の証拠によれば、右事実の肯認を含めた同被告人の本件犯行の自白(同被告人は控訴趣意で、第一審判決の同被告人の自白どおりの事実認定は正しいものであると述べているところである)については、その自白の真実性を裏付けるに足る補強証拠を認め得られるのであって、従って被告人が犯罪の実行者であると推断するに足る直接の補強証拠が欠けていても、その他の点について補強証拠が備わり、それと被告人の自白とを綜合して本件犯罪事実を認定するに足る以上、憲法三八条三項の違反があるものということはできない。論旨は理由がない。

被告人竹内景助の弁護人布施辰治の上告趣意第二点(論旨(一))、第四点、同吉田三市郎外四三名の上告趣意第一点(以上論旨(二))、被告人竹内景助の上告趣意中事実誤認等の主張について

論旨(一)は、刑訴法下における被告人の地位から見て、その供述は証拠となし得べからざるものであると主張する。しかし被告人の供述が証拠となり得るものであることは、憲法三八条三項刑訴三一九条からもたやすく窺われるところである。

論旨(二)は、判決の証拠となった同被告人の検察官に対する自白は、強制拷問脅迫誘導によったものであって証拠となし得ないものであると主張する。しかし右供述が所論のごとく同被告人の不任意に出でたものであるとのことは、これを認めるに足る資料がないのみならず、第一審判決並びに原判決もまた所論のごとき不法な供述強要の事実は認められないことを判示しているのである。

また右供述及び判決の証拠となっている第一審公判廷における同被告人の自白(第一三回公判、第五四回公判における自供)は、いずれも不当長期拘禁後の自白であって証拠とすることができないものであると主張するのであるが、記録に徴すれば、検察官に対する同被告人の自白は拘禁一七日以後なされたものであり、また所論公判廷における供述は勾留五ケ月余又は一〇ケ月余を経てなされたものであることは明らかであるけれども、本件事案の内容、取調の経過その他諸般の事情に照し右一七日の拘禁は不当に長きにわたる拘禁とはいえない。また所論公判廷における自白は既に右検察官に対してなされた自白の反覆であるから、右公判廷における自白をもって、不当に長い拘禁後の自白ということはできない(昭和二三年(れ)第二七一号、同年六月三〇日大法廷判決、判例集二巻七号七一五頁参照)。されば所論の同被告人の自白を証拠としたことについて、憲法三八条二項に違反するものとはいえないのである。

また被告人竹内景助は、同被告人は本件犯罪事実について全く無関係であり、その検察官に対する自白は不任意に出でたものであり、第一審公判廷における自白及び原審における犯行自認は他の意図に出でたものであることを強調するのであるが、記録を精査しても、原判決の同被告人に対する有罪認定が不当であるとは認めることはできない。

被告人竹内景助の弁護人今野義礼の上告趣意第一点、同上村進の上告趣意第三点、同吉田三市郎外四三名の上告趣意第一一点について

論旨は、原判決が被告人竹内景助に対し死刑を科したことは、憲法三六条一一条一二条一三条に違反すると主張する。しかし刑罰としての死刑は憲法上容認されたものであり、また憲法三六条が禁ずる残虐な刑罰に当らないのみならず、犯罪から社会を防衛するために必要な場合は、適法な手続に従って、刑罰として個人の生命を奪うことも認容されるものであることは、当裁判所判例(昭和二二年(れ)第一一九号、同二三年三月一二日大法廷判決、判例集二巻三号一九一頁)の示すところによって明らかである。また刑法各本条に定められた法定刑の範囲内において死刑を選択処断することは、それが被告人の側から見て重いと感ぜられるとしても、それだけでは残虐な刑罰ということはできないのである。されば原判決が被告人竹内景助に刑法一二六条三項の例に依る一二七条の罪あることを認定して、これに対し法定刑中死刑を選択処断したことにつき所論のごとき違憲は存せず、論旨は理由がない。

被告人竹内景助の弁護人岡林辰雄の上告趣意第一点乃至第三点、同吉田三市郎外四三名の上告趣意第四点(以上論旨(一))、第五点(論旨(二))、第六点(論旨(三))、第七点(論旨(四))、第八点(論旨(五))、同今野義礼の上告趣意第三点、被告人竹内景助の上告趣意中の右同論旨(以上論旨(六))について

論旨(一)は違憲をいうけれども、原判決において、被告人竹内景助に対し死刑を選択する理由として、重いと認められる犯情を挙げて説示しているのに対し、独自の立場から、これを偏見に基くもので公正でないと非難するに外ならないものであって、結局量刑不当の主張に帰するものといわなければならない。

論旨(二)は、原判決において、被告人竹内景助の本件犯行の動機目的が、日本国有鉄道(以下国鉄と略称する)職員の全国的ストライキの口火を切ることにあった点を重視しているが、この事実は同被告人の自白のみによって認定されているのであって、憲法三八条三項に違反すると主張する。しかし本件のごとき罪については、その犯行の動機目的は犯罪構成要件として示されていない事実に属するものであるから、その認定については証拠法上の厳格な制約を受けるものではないのであって、これを被告人の自白のみによって認めても、違憲違法ということはできないのである。論旨は理由がない。

論旨(三)は、違憲をいうけれども、被告人竹内景助の前示本件犯行の目的について、原判決が「全国的ストの口火とまでは行かなくとも、計画が成功すれば或は他の電車区にその影響を及ぼすことはあり得るところであった」と認めたことを、事実誤認と主張するに帰するものであり、また量刑非難の一理由を主張するものに外ならない。

論旨(四)は、国鉄職員の争議禁止を規定する公共企業体労働関係法一七条は、憲法二八条に違反し無効であるべきにかかわらず、原判決は被告人竹内景助の本件犯行の動機目的が、争議行為を禁止されている国鉄職員をしてストライキに立上らしめようとした不法のものであることをもって、犯情の重い理由としていることは違法であると主張するのである。

しかし国鉄職員が国家公務員であった当時において、その争議行為の禁止が憲法二八条に違反するものでなかったことは、当裁判所の既に判示したところである(昭和二四年(れ)第六八五号、同二八年四月八日大法廷判決、判例集七巻四号七二五頁)。その後本件犯罪の発生前、国鉄職員は法制上国家公務員とはならなくなったが、しかしなお、法令により公務に従事する者とみなされるものであり(日本国有鉄道法三四条)、また国鉄の資本金は全額政府の出資にかかり(同法五条)、その性格は公法上の法人であって(同法二条)、その事業経営の実質及び条件は従前と殆んど異なるところはないのである。すなわち、かかる公共企業体の国民経済と公共の福祉に対する重要性にかんがみ、その職員が争議行為禁止の制限を受けてもこれが憲法二八条に違反するものでないことは、前掲判例の趣旨に徴して自ら明らかである。論旨は理由がない。

論旨(五)は、原判決が重い犯情として、被告人竹内景助の本件犯行の動機目的の不法であることを挙げ、これを理由として重罰を科したことは、同被告人の思想信条を理由とする差別待遇であり憲法一九条一四条に違反すると主張する。しかし、原判決は同被告人に対する量刑を考慮するに当り、その情状の一として犯行の動機目的が法の禁ずる行為を敢行せしめんことを企図した不法なものであることを判示したものであって、同被告人が公共企業体労働関係法一七条による争議行為禁止の規定をもって違憲なりとする思想の所有者なるが故に、これを処罰し又は特に重く処罰したものではない。されば所論違憲の主張は既にその前提を欠くものであって理由がない。

論旨(六)は、量刑不当の主張であって、刑訴四〇五条の適法な上告理由に当らない。そして原審の量刑をもって著しく正義に反するものとし、これに同四一一条を適用すべきものとは認められない。

被告人竹内景助の弁護人布施辰治の上告趣意第一点について

論旨は単なる訴訟法違反の主張であって、刑訴四〇五条の上告理由に当らない。なお、控訴趣意書を控訴申立をした検察庁の検察官が作成し、これを控訴裁判所に対応する検察庁の検察官が提出することは、少しも訴訟法に違反するものということはできない。

よって刑訴四〇八条により主文のとおり判決する。

この判決は、小関弁護人の上告趣意第一点等の刑法一二七条の解釈問題について裁判官栗山茂、同真野毅、同島保、同藤田八郎、同谷村唯一郎の少数意見、井本弁護人等の上告趣意第一点等の刑訴四〇〇条但書による自判の問題について裁判官栗山茂、同小谷勝重、同谷村唯一郎、同小林俊三の少数意見の外、裁判官全員一致の意見によるものである。

被告人竹内景助の弁護人小関藤政の上告趣意第一点、同今野義礼の上告趣意第二点、同井本台吉及び草野治彦の上告趣意第二点、同上村進の上告趣意第二点、同吉田三市郎外四三名の上告趣意第九点に関する裁判官栗山茂、同真野毅、同島保、同藤田八郎、同谷村唯一郎の少数意見は次のとおりである。

多数説は、刑法一二七条は、一二五条の罪を犯し因て汽車電車の顛覆、破壊又は艦船の覆没、破壊を致し、更に因て人を死に致した場合に、一二六条三項の例によって処断すべきことを規定したものであると解するのであるが、この見解は正当とは思われない。一二七条は一二五条の罪を犯し、因て汽車、電車、艦船の顛覆、破壊等の結果を生ぜしめた場合、一二六条一、二項の例によって処断すべきことを規定したに止まり、さらに、これに因て生じた致死の場合の結果的加重責任については、何ら規定するところのないものと解するを相当とする。その理由は次に述べるとおりである。

刑法各本条を通じて、結果犯を加重の刑をもって処罰すべきものとする場合は、必ずいかなる結果の発生を要件としていかなる刑に処するかを法文に明記されているのであって、これが規定の方法として他の処罰規定を準用する場合であっても、結果犯処罰の要件たるべき事項は、例外なく各条にこれを明記しているのである。このことは罪刑法定主義の原則の根本的要請に適うものであって、刑罰法規にかかる明記のない場合に不明確な規定を基礎として行為者の意識せざる行為の結果にまで、刑事責任を課せんとすることは罪刑法定主義の本義にもとるものと云わなければならない。そこで一二七条の規定を見ると、一二五条の罪の結果犯の要件として掲げられているところは「因テ汽車又ハ電車ノ顛覆若クハ破壊、又ハ艦船ノ覆没若クハ破壊ヲ致シタル者」というに止まるのであって、更に因て人を死に致した場合について何ら法文に掲記するところはないのである。(一二六条においては三項にこれを明瞭に掲記しているにかかわらず)。この法文に掲記せられた結果犯の要件を基準として、一二七条にいわゆる「前条ノ例ニ同シ」を解釈すれば、前条一、二項の例に同じと解さるべきは当然であって、前条三項の致死の場合の規定は、その適用を見るべき余地はないのである。一二七条は「前条ノ例ニ同シ」と規定して、特に前条三項を除外してはいないけれども、すでに前説示のごとく同条により結果的責任を生ずべき要件が特定されている以上三項適用の余地のないのは当然であって、「前条ノ例ニ同シ」という辞句から遂に致死の場合をもその要件として包含せしめようとすることは、厳格解釈を本則とする刑罰法規の解釈としては無理であるといわなければならない。

一二六条三項は、その法定刑は「死刑又は無期懲役」にかぎられている極めて重い刑罰法規であって、かかる法定刑は、刑法中、尊属殺、強盗致死、強盗強姦致死、内乱罪の首魁等兇悪な犯罪にかぎって、課せられるところである。おもうに、人の現在する汽車、電車等を顛覆破壊し、依って人を死に致すというがごとき犯罪は極度に交通機関の安全を害し、多数人命の危険を招来する、往来妨害の罪として最重最悪のものというべきで、これに対し右のごとき重刑をもってのぞむこと、また、故なしとしないのであるが、かかる重刑を課すべき場合は、その犯罪を構成する要件が法文に明記されている場合に局限せらるべきであって、たやすく、かかる規定の拡張適用を許すべきではないのである。

もともと一二七条の基本となる一二五条の罪は、単なる汽車、電車等の往来の危険を生ぜしめる罪であって、その法定刑は「二年以上の有期懲役」と定められ、たとえ、この罪を犯して過って人を死に致した場合でも、過失致死の罪と比照して重きに従って、処断されるに過ぎない。すなわち最長一五年の懲役刑を超えることなく、事情によっては最短二年の有期懲役ということもあり得るのである。しかるに、同じく一二五条の罪を犯して、たまたまその結果として人の現在しない汽車、電車等の顛覆破壊等の事故をおこし、それがために人を死に致した場合において、若し、多数説のごとく、この場合に一二六条三項の適用ありとすればその法定刑は「死刑又は無期懲役」に限ることとなり、前段の場合と比べて、あまりにも刑の権衡を失するものといわなければならない。そうして一二七条の場合たるや、汽車、電車の顛覆破壊乃至は致死について、過失すらない場合にも適用を見るべきは結果犯の性質上当然であるから、この場合においても、必ず「死刑又ハ無期懲役」という法定刑の苛酷に過ぎることは云わずして明らかであろう。(若し一二五条の罪を犯し、因て人の現在する汽車、電車等の顛覆破壊等を惹起した場合その顛覆破壊等について、未必にもせよ故意ある場合は、当然に一二六条の適用があるのであり、また、一二五条の罪を犯し、未必の故意すらなくして人の現在する汽車、電車等の破壊顛覆等を惹起するというがごときは、極めて稀有の事例に属するのみならず、かかる場合、一二六条三項の適用なくとも同条一、二項の適用により「無期懲役以下三年以上の有期懲役」に処することができるのであるから、この種事犯に対しても必ずしも、その量刑に事欠くことはないのである。)さらにこれを、刑法の過失致死、または、放火に因って人を死に致した場合の刑と比較しても、また甚しく権衡を失するものといわなければならない。以上ひっきょう、一二七条について多数説のごとく一二六条三項の適用ありとの解釈をとることのいかに不合理であるか、かかる解釈の到底採るべからざることを実証してあまりあるものである。すなわち同条は一二五条の罪を犯して、汽車、電車等の顛覆、破壊等を生じた場合の結果的加重犯に関する規定であって因って致死の場合については、一二六条三項の適用を除外しているものと解するを相当とするのである。

今、本件について、原判決の判示するところをみるに被告人竹内景助は三鷹駅電車区車庫に入庫中の人の現在しない七両連結の電車を運転者なしで同駅一番線上を暴走させて電車の往来の危険を生ぜしめたというのであるが、その際の同被告人の犯意として原判決の確定するところは「軽卒にも人の現在しない入庫中の電車を発進させ、運転者なしで、これを暴走させて電車区構内出口の一旦停止の標識がある地点で脱線させ、これにより電車の入、出庫を妨害しようと企てた」ものとするのであって、右暴走の結果として生じた電車の破壊および附近に居合せた六名の致死については、当時被告人において、何らの認識なく、これらの事故は「被告人の予期に反して」惹起したものであるとしているのである。すなわち、原判決の確定するところに従うかぎり本件六名の致死は、その本質は、被告人の過失致死以上に出でないものであることは明らかである。

かくのごとき案件に対し一二六条三項を適用すべきでないことは前叙のとおりであって、被告人に対しては一二七条一二六条一項による電車破壊罪と、別に過失致死罪(被告人に対し致死についての過失が認定せられるかぎり)の刑を以て処断すべきものと思料する。

それ故、原判決を破棄し原審に差戻すを相当とする。

被告人竹内景助の各弁護人の刑訴四〇〇条但書の解釈に関する論旨に対する裁判官栗山茂の意見は次のとおりである。

刑訴四〇〇条但書は控訴審に自判することを認めているけれども、控訴審はその性格上どんな場合にでも自判が許されていると解すべきではない。すなわち、控訴審は刑訴四〇〇条但書の要件を具え、しかも被告人の基本的利益を害しない場合に限り、訴訟経済上、自判することが許されるけれども、一審判決を破棄自判して被告人に不利益な刑を新たに科することは被告人の基本的権利を害するから許されないと解すべきであるというのがこの意見の要旨である。

新刑訴法における事後審たる控訴審の役目は、事実審である一審判決の当否を事後的に審査するにあるので、原則として事案の実体を覆審として又は続審として、再審理するにあるのではない。それ故書面審理だけで事案を再審理するような結果になる場合は、訴訟経済になるからといって、控訴審が自判し得る場合には含まれないのであって、かような場合は、刑訴四〇〇条但書にいう「直ちに判決することができる」場合には当らないのである。

控訴審が刑訴四〇〇条但書により、原判決を破棄自判する典型的の場合としては、原判決に事実の確定に影響のない法令違反例えば確定した事実に対する法令の適用に誤があって(刑訴三八〇条)その法令違反又は誤が判決に影響を及ぼすことが明である場合に控訴裁判所が独自の見解により原判決の法令違反を是正するため原判決を破棄すると共に訴訟経済上直ちに自判する場合であると思われる。これに対して原判決の事実誤認又は量刑不当を理由として被告人から控訴の申立があった場合にこれを破棄して自ら有罪の判決をする場合は、事実並びに情状の調査を必要とするから、たとい原判決を変更し原判決と同一若しくは軽い刑を言渡すときでも、本来からいえば事実審たる原審をして再審理の上、新な刑を量定せしむべきであろう。しかしこの場合は原審の公開の法廷で被告人出廷の下に適法に取調べられた証拠により訴因の変更の許される同一の公訴事実の範囲内で新しい事実を認定し若しくは単に刑を軽減するのであるから、刑を加重するのとは異り、被告人に実質上新に刑を言渡すことにはならないし、又被告人の基本的権利を侵害することもないのみならず、刑のみの軽減は行政処分によってもなすことが許されている位であるから(恩赦法六条)裁判所が事実の取調をしないで、被告人をして直接弁解せしめるための手続を履践しなくても正義に反するものではない。故に控訴審をして訴訟経済上原判決を破棄自判せしめても敢えて違法の問題を生ずるものではない。しかしながら原判決に事実の確定に影響のない法令違反がある場合であっても、その法令の適用を是正すると共に原判決より重い刑を言渡す場合、又は原判決の事実誤認又は量刑不当を理由として検察官から控訴の申立があった場合に控訴審が一審判決を被告人の不利益に変更して、例えば犯罪の事実の証明なしとして無罪を言渡した判決を有罪判決に変更して刑を科し、又は原審が法令の解釈を誤ったためその確定した事実は罪とならずとして無罪の言渡をした判決を、右事実は罪を構成するとして、新に法令を適用し、刑を科した有罪判決に変更し、或は事実の認定を変えると否とに拘らず原判決の執行猶予を取消して実刑を科し、若くは無期懲役を死刑とするのはもとより、かりに一年の懲役刑を科した原判決を破棄して一年六月に加重するにしても六月だけは控訴審で初めて新しい刑を科するわけであって、以上の場合は何れも控訴審で新に事案を審理したと同じ結果になる場合なのである。ところで茲で注意しなければならないのは、憲法三一条によれば控訴審が刑事被告人に公開の法廷で直接弁解する機会を与えて事実の取調をすることなく単に書面審理によってかような新しい刑を科することは許されていないことである。

同条の保障するところは原則として、刑事被告人は公開の法廷で直接弁解する機会が与えられた公正な審理を経なければ、その生命若しくは自由を奪われ、刑罰を科せられないということである。(註。憲法三一条の解釈論に深入りするのは本稿の目的ではないが、同条にいう「法律の定める手続」というのは米法にいうヂウ・プロセス・オヴ・ローそのままでないことは、わざわざ違った文句を使っていることで明である。同じ文句を使えば米法におけると同じように裁判所が実体上のヂウ・プロセスへ拡張して実体上の司法的抑制に移行する虞があったからである。それ故ヂウ・プロセス・オヴ・ローその本来の姿である手続上のプロセス・オヴ・ローに限局してわざわざ「法律の定める手続」と書き直したのであるがその解釈については現在及び将来も議論がありうると考えられるけれども、私は結局において被告人に公開の法廷で弁解する機会を与えられた、つまり公正な審理(a fair trial or hearing)の保証の数語に帰すると思う。)それ故憲法は上訴制度及び上訴手続については何等言及していないからといって法律の定める上訴手続が憲法三一条の保障を無視することは許されないのは明である。それを刑訴四〇〇条但書に「控訴裁判所は訴訟記録並びに原裁判所及び控訴裁判所において取調べた証拠によって、直ちに判決をすることができるものと認めるときは、被告事件について更に判決をすることができる。」と規定しているから、控訴裁判所が書面審理だけで原判決を破棄自判の上新しく刑を科しても、当不当の問題にはなっても敢て法律の定める手続に反しないから違法の問題を生じないなどという解釈を下すとすれば、それは憲法三一条と刑訴四〇〇条但書との本質的な関係を誤解しているものである。控訴裁判所だからといって訴訟経済のために被告人の弁解もきかないで書面審理だけで新しい刑を科することが許されないのは、同じ理由で事実審裁判所が書面審理だけで被告人に刑を科することが許されないのと毫も異るところがない。憲法三一条はかような専断的な裁判手続を禁止しているのである。或は検察官は刑事被告人と対等に上訴することが許されているから、被告人に利益な場合ばかりでなく、検察官に利益な場合にも控訴審の破棄自判を認むべしとの考え方があるかもしれない。しかし訴訟当事者として対等であっても国の機関として国の権力を背景とする検察官と弁護人の選任さえ思うにまかせないあわれむべき刑事被告人とは実質上対等ではないのである。この不対等な刑事被告人を検察当局とか裁判所の専断な権力行使に対し保護するため、公正な審理を受けた後でなければ処罰せしめられないというのが憲法三一条の趣旨である。されば検察官の控訴が理由あるならば原判決を破棄差戻しして事実審をして再審理をさすべきであって、それを控訴審自ら被告人の顔も見ないで即ち弁解の機会も与えないで被告人に刑を科するというのは憲法三一条の公正な審理の要請から見て是認されないところである。されば本件において原判決が刑訴四〇〇条但書の解釈を誤って同規定に則り一審判決を破棄し書面審理をしただけで自判し一審判決の無期懲役を被告人の不利益に変更して被告人に死刑を科したのは違法であると断ぜざるをえないのである。

被告人竹内景助の各弁護人の刑訴四〇〇条但書の解釈に関する論旨に対する、裁判官小谷勝重の少数意見は次のとおりである。

本点についてのわたくしの少数意見は、栗山裁判官の少数意見と全く同一につき(但し、右栗山裁判官意見中「刑のみの軽減は行政処分によってもなすことが許されている位であるから(恩赦法六条)」との点、及び同「註」の点を除く)すべて之を引用する。なおわたくしは次のことを附加する。

曽て大法廷は、「生命は尊貴である。一人の生命は全地球よりも重い。死刑は、まさにあらゆる刑罰のうちで最も冷厳な刑罰であり、またまことにやむを得ざる窮極の刑罰である。それは云うまでもなく、尊厳な人間存在の根元である生命そのものを永遠に奪い去るものだからである。」と判示するところである(判例集二巻三号一九二頁)。右は一人の生命の軽視は全人間の生命の軽視に通ずる。人間の生存しない地球は虚無であるとの趣旨ではなかろうかと解される。まこと死刑は人命に対する終局永遠の刑であって、国家が行う「必要な害悪」のうち止むことを得ざる場合において認容され肯定されるものといわなければならない。無期刑と雖も仮出獄の制度があるのであるが、死刑には再審の制度も賠償の制度も科学も権力も、一旦死刑に処した生命を生還させることはできないのである。そして人間のなす裁判には過誤なきを期し難い。それ故死刑を言い渡す事件においては、裁判官は可能な限度の慎重な審理を尽すべきである。しかるに本件原審はその法律上可能な事実審理も証拠調べもせず被告人の直接な意見弁解も聴かず顔すら見ることなく、書面審理によって一審無期懲役刑の判決を破棄して死刑を自判したのである。原審は人命の尊貴とその情理を軽視し、刑事裁判の本質にもどり刑訴四〇〇条但書の解釈を誤った違法な判決といわなければならない。よって刑訴四一一条一号により原判決を破棄し、事件を原審へ差し戻すを相当とする。

刑訴四〇〇条但書の解釈に関する被告人竹内景助の弁護人井本台吉、同草野治彦の上告趣意第一点、同吉田三市郎外四三名の上告趣意第三点、被告人竹内景助の上告趣意について、裁判官谷村唯一郎の少数意見は次のとおりである。

原判決は、被告人竹内景助に対する第一審の無期懲役刑を不当であるとしてなした検察官の控訴につき、何等新たな事実の取調をしないでその理由あるものと認め、一審判決を破棄した上刑訴四〇〇条但書により自判して死刑を言い渡したのであるが、私は原審のこのような措置は同条但書の規定を正解せざるに因るもので、違法であると考える。およそ控訴審において控訴を理由ありとし一審判決を破棄自判する場合において、自ら事実の取調をすることなく訴訟記録並びに第一審で取り調べた証拠だけで、しかも被告人の基本的権利に影響ある裁判、例えば無罪を有罪にし、刑の執行猶予を取り消す裁判(破棄自判)をすることができるかどうかについて、従来最高裁判所小法廷の判決はこれを積極に解しておるのであるが((一)一審の執行猶予を取り消し実刑に処した事案に関する昭和二五年(あ)第二九八一号同二六年一月一九日第二小法廷判決(二)一審の無罪判決を有罪判決に変更した事案に関する昭和二五年(あ)第三四五〇号同二六年二月二二日第一小法廷決定及び昭和二六年(あ)第一二三号同二七年七月二二日第三小法廷判決)、私は右各判例の対象となった事案の場合と更らに本件のように検察官の控訴により一審の無期懲役を死刑に変更するような場合においては、控訴審は控訴理由ありとして第一審に差し戻すか然らざれば自ら事実の取り調べをした上でなければ自判することはできないと解すべきであると考える。換言すればかような場合はもはや四〇〇条但書による破棄自判の限界を超えているのである。以下その理由を述べる。

刑訴四〇〇条但書のできた趣旨が訴訟経済の見地から出ていることに鑑みるとき、控訴審で破棄自判をするあらゆる場合に常に必ず事実の取調をしなければならないものとすることは法の趣旨に副わないことになる、といってまた如何なる事案についても事実の取調をしないで裁判所の裁量で破棄自判ができるとすることも正当でないのであり、自らそこに限界があるのである。そしてその限界を何処に求めるかということになるのであるが、その概念としては直ちに破棄自判してもその結果が被告人の基本的権利を害さない場合、例えば事実の認定に変りがなくただ法令の適用を是正するために破棄自判する場合、或は刑の廃止または大赦があって原判決を破棄して免訴の言渡をする場合の如きは典型的な事例であって、これを一審に差し戻したりまた自ら事実の取調をしなければ自判ができないとすることは徒らに無用の手続を繰り返すにすぎないから、かような場合は直ちに破棄自判することが訴訟経済であり、そして被告人に不利益を与えるものでないから但書の規定に適合する場合である。要するにその限界は訴訟経済と被告人の人権の保障とをにらみ合せ具体的事件について四〇〇条但書制定の趣旨の範囲を逸脱しないように判断すべきであり、苟くも訴訟経済に名を籍り被告人の基本的権利の保障を犠牲にすることがあっては法の趣旨に反するのである。この見地から私は前に引用した小法廷の判例の事案である(一)刑の執行猶予を取り消す場合(二)無罪の判決を有罪に変更する場合と更に(三)一審の有期の懲役刑を無期としまたは無期有期の懲役を変更して死刑とするような場合において、直ちに破棄自判することはその限界を超える最も明らかな場合であるから、控訴の理由があると思料するにおいては一審に差し戻すべく、もし破棄自判する場合は自ら事実の取調をした上でなければこれをすることは許されないものと信ずる。このような場合は被告人にとって裁判を受けるにあたり重大な不利益を受ける虞れのある危険に曝される場合であるから、被告人に対し公開の法廷に出廷して防御の機会を与えなければ、基本的人権の保障に欠けることになるからである。そして本件は正に右三の場合に該当するものであって、検察官の控訴に対しただ原審の取り調べた証拠と訴訟記録だけで人の生命を奪う刑として最も重大であり峻厳である死刑の判決をするにあたって、何等事実の取り調べを行わず、被告人に防御の機会を与えず、その意見弁解を聴くことなく、検察官の一方的控訴理由を容れて、被告人に死刑の判決をすることは、基本的人権の保障をうたっている刑訴法の根本精神に反し人命の尊重に忠実でないもので憲法三一条の精神にも悖るものである。

多数意見は、理由の一として、控訴審において破棄自判する場合殊に刑を重く変更する場合は客観的に見て自判の結果が差戻または移送後の一審判決よりも被告人にとって不利益でないということが確信される場合でなければならないこと勿論であり、若しこの確信が相当と認められる場合は自判により一審の無期懲役刑を死刑に変更することもまた必ずしも違法ではなく、本件はこの場合に該当すると言っているが、このような理由は、本件の如き事案については必ず被告人を公判廷に出廷せしめ防御の機会を与えることが裁判の要件であるとする見解から見れば、的外れの議論であり首肯するに値いしない、なんとなれば控訴審が自ら事実の取り調べをする場合被告人は当然公判に出廷して検察官の控訴理由に対し防御の機会を与えられることになり、裁判所は被告人の提出した資料と控訴理由とを具さに考覈した結果当初の心証を覆えして控訴棄却の判決をすることもあり得べく、また一審に差し戻した場合においては一審裁判所は控訴審の量刑過軽の判断に拘束されるため従来の資料だけでは被告人は死刑の言渡を受けることになるであろうが、被告人は公判廷において意見を述べ、また新たに資料を提出する等充分防御の手段を尽くすことができるのであるから一審裁判所は新たな資料に基づき情状を判断して検察官の量刑過軽の主張が理由がないと認めれば必ずしも控訴審の判断に従わなければならないこともないのであり、またもし不利益の裁判を受けた場合は被告人は更に控訴もできるのであるから、(この場合控訴審でも新たな資料に基づき差し戻し前の控訴審の判断と異なる裁判をすることも可能であると解する)控訴審において直ちに破棄自判する場合に比べ被告人の権利の保障において著しい相違があるのである。従って多数意見が前叙の見解のもとに本件は一審に差し戻しても一審で言い渡される法定刑は死刑以外にないという観点に立ち、従って自判しても被告人に不利益でない場合であるとなし、原審の措置を正当としていることは、控訴審における事実の取り調べ並びに差し戻しにより行われる訴訟手続の効果を看過した議論である。

以上の理由により原審が刑訴四〇〇条但書を適用して本件を破棄自判したことは、法令の解釈を誤ったもので著しく正義に反するものであるから、前に述べた少数意見の外この点からしても刑訴四一一条により原判決を破棄し原審又は第一審に差し戻すべきである。

被告人竹内景助の各弁護人の刑訴四〇〇条但書の解釈に関する論旨について裁判官小林俊三の少数意見は次のとおりである。

被告人竹内景助に対する原判決はこれを破棄し、第一審又は原審に差し戻すべきものである。

原判決は被告人竹内景助に対する第一審の無期懲役刑を量刑不当の理由で破棄自判し、死刑を言い渡したのであるが、その手続は、原審自ら直接事実の取調を行わず、被告人の意見弁解を聴くこともなく、いわゆる書面審理のみにより死刑を言い渡したのである。このような手続によって被告人に死刑を言い渡すことは、違法たるを免れないと考える。(なお私は控訴審における破棄自判の限界について、第一審無罪を有罪とする場合をもって考え方の基本とするものであるが、すでにかかる実例の事件(昭和二七年(あ)第五九七号同二九年六月八日第三小法廷判決、集八巻六号八二一頁)において少数意見を述べてあるから、その意見中、本件における後記意見と重複する部分を除き、その他の部分をここに引用する。)

(一)  刑罰は、犯人の有する法益の剥奪と説かれているが、人と自由との関係の面からいえば、直接又は間接に人の自由を奪う方法又は程度を中心として考えられて来たと見るべく、従って刑事の審判において被告人が有罪であるか無罪であるかは、結果として被告人が自由を奪われるかどうかの本質的な部分を決定するのであって、これと同じ基本的関係に立つものとして、他の刑と死刑、執行猶予と実刑とを挙げなければならない。特に死刑についていえば、被告人の生命を断ちその自由を終局的に奪うもっとも厳しい刑罰であるから、他の刑相互の関係と比ぶべくもなく、無罪と有罪との関係と同じ又はそれ以上の価値を有するものと見るべく、従って刑事の審判においては、きわめて深い考慮が払われなければならないのである。次に刑事の審判は、いうまでもなく刑罰をその罪に応じて被告人に科する手続であるが、一般にその発展は、主として基本的人権の向上と相応じて丁寧慎重になって来たことがうかがわれ、この線に沿うて確立した罪刑法定主義とともに、公開主義、直接口頭審理主義及び証拠裁判主義等の諸原則は、刑事審判の不可欠の要素となったのであって、わが刑訴法もこれらの原則のいずれをも離れることを許されるものではない。そしてこれらの原則のうち直接口頭審理主義は、もっとも古くから成立していたと見るべく、裁判官が被告人を直接口頭で取り調べその弁解を聴き、最後に有罪か無罪かを定めるという経過がその本質的な部分として維持され発展して来たのであって、これに加わった証拠裁判主義とともに、被告人の防御権に直接する関係において被告人にもっとも利害の深いものであるといわなければならない。かつまた現在のわが刑訴法は、当事者主義を大幅に拡張した結果、被告人の防御権が著しく拡張され、また他方にもっぱら客観的な証拠によって事実を認定しようとする主義をさらに深くとり入れるに至ったから、特に右二原則は、被告人がその防御権を行使する最少限度の手がかりとして、尊重され遂行されなければならないのである。(以下直接口頭審理と証拠調を行う審判を本格的審理と略称する。)次に刑事審判における前記二原則は、何を目的として行われるかといえば、いうまでもなく唯一に被告人の有罪か無罪かを定めるためであって、この最後の目的をほかにしてこれらの原則それ自体に意義があるわけではない。それゆえ他の刑と死刑との関係が、刑事審判の唯一の目的である有罪か無罪かを定める関係と少くとも同視すべきかぎり、その段階における手続は、これらの原則を最後まで貫いて行わなければならないことは、この面からいっても当然の帰結である。もし控訴審なるが故に被告人は少くともなんら意見弁解をする機会も与えられず、無期懲役刑から死刑に変更されることが是認されるとすれば、控訴審において被告人の防御権の基本的保障である前記諸原則が行われないで死刑に処せられる審判があることに帰し、その不当なるこというをまたないのである。

(二)  次に刑訴の控訴審の職責の面から考えてみるに、控訴審は控訴事由に基き第一審判決の当否を審査する事後審であるといわれながら、その純粋度についていくつかの見解がある。しかし控訴審がその職責とする第一審判決の当否の審査は、所定の事項(刑訴三九二条)について、主として記録に基く書面上の調査を行うことが原則であって、特に必要ある場合においてのみ事実の取調をもすることができるのであり(刑訴三九三条)、またこの事実の取調は、また新たな証拠調も含まれると解されていることは現に行われているとおりである。(以下本稿において事実の取調とは、弁論の方式に従い証拠調をも含む本格的審理の意味に用いる。)この事実の取調といえども、控訴審本来の審査の範囲に止まるべきこというまでもないが、事実の取調がさらに新しい証拠調に進むことをも許される以上、この段階は控訴審本来の性格に附属するものであって、いわば部分的に続審としての機能を行うものにほかならない。しかしこの職能を認められるからといって、控訴審本来の職責が、はじめから常に直接独自の事実の取調をするものでもなく、ましてこの手続によって常にひろく破棄自判することを認められるものでないこというまでもない。同時に他面この事実調の職能は、単に控訴審の無制約な自由に委されている便宜的規定と解すべきでなく、刑事審判の本旨に従って尊重されることを要し、特に破棄自判においてはこの手続に入ることを必要とする場合があることを認めなければならない。ところで刑訴四〇〇条但書によって認められる破棄自判の手続は、第一審に差し戻す(移送を含む。以下同じ。)必要がないために訴訟経済上特に認められた制度であるから、必ずしも常に事実の取調を要するものではないけれども、そこに自から限界があって、いかなる場合でも制限なくいわゆる書面審理だけで破棄自判ができると解することはできないのである。そしてその限界は何であるかといえば、はじめに述べたような刑事の審判として本格的審理を必要とする場合であって、かかる場合はいわゆる書面審理の限界を越えると解するのが相当である。すなわちかかる場合に当るときは、控訴審がいわゆる書面審理を行った結果、第一審判決を破棄するを相当とする判断に達したときでも、事件を第一審に差し戻し控訴審の判断の正当なることをさらに裏付けるための本格的審理を行わしめるか、又は控訴審が破棄自判を行うためには、控訴審でも特に認められる事実の取調を行って、書面上の判断が果して正当であるかどうかを確定した上、その後に判決の言渡をするのが正しいのである。これを本件について別な面からいえば、第一審の無期懲役刑を控訴審で死刑にすることは、死刑の性質上単なる量刑の修正的変更と同視すべきでなく、控訴審本来の審査の範囲を越える結果を来すといえるのであるから、右のいずれかの手続をとることを要するものと認めなければならないのである。しかるに本件において原審は特に認められた独自の事実調すら行わなかったのであって、違法たるを免れない。

(三)  証拠の面から考えてみるに、本件で原審が量刑について死刑を選ぶに至ったのは、訴訟記録と第一審が取り調べた証拠を検討して達した判断によると認められるが、その基礎となった主たる証拠は、すべて第一審で取り調べた各供述調書その他の書証であって、いわゆる書面に属するものであるから、原審は結局これらの証拠の単なる書面上の理解によって、第一審の無期懲役刑を不当とし死刑を相当とするという確定的な価値判断を与えたのである。ところで原審が判断の根拠とした第一審で取り調べた証拠が、手続上適法であり、証拠能力において欠けるところがないとしても、第一審と控訴審と裁判官たる人を異にする以上、これらの証拠の証明力に対する価値判断に差異を生ずることがあるのは当然であり、又控訴審の裁判官の自由心証は第一審の判断によってなんら拘束を受けるものでないこというまでもなく、審級の意義もここに存するのである。しかしこれらの証拠について第一審の裁判官は、直接自からこれを取り調べ、人についていえば直接その顔を見その声を聴いて形成された心証であるが、控訴審の裁判官は、前述のようにすべて単に書面上の理解によったものであり、いわば間接の関係にあることを考えなければならない。もちろんこの差異があるからといって、控訴審の裁判官が書面のみによって独自の心証を形成することをなんら妨げられるものでないが、これには自から限界があって、いわゆる書面審理によって本件のように死刑を相当とするような判断に達する場合は、この判断は書面の上から生じた間接の心証であり、いわば未確定の疑いと見るを相当とし、これをもって、直ちに死刑の判決の基礎とすることはできないと解すべきである。従ってこの段階における判断が決定的な判決の基礎となるためには、原則として事件を第一審に差し戻すべきであり、また控訴審が自から死刑を言い渡すためには、さらに事実の取調を行い、少くとも被告人についてその意見弁解を聴き本来の防御権を行使する機会を与え、はじめのいわば未確定の判断を本格的審理の裏付によって確定的判断とすべきである。またこれらの証拠について別な面から考えてみると、第一審の裁判官にとって無期懲役刑を相当とする価値判断を生じた証拠は、その事件が控訴審に係属するとともに、第一審で適法に証拠調が行われたという手続上の価値が成立しているだけで、証明力に関するかぎり一たん白紙の状態に戻り、控訴審の裁判官の新たなる判断を待つということになるのである。従って控訴審の裁判官がこれらの書面たる証拠によって原審と異なる心証を生じ、死刑を相当と判断するに至るときは、はじめに述べた死刑という冷厳な刑罰の性質からいって、その審判は単に第一審判決の当否を審査する限界を越え独自の創造的価値判断に入るのであり、この段階に入るかぎり右に述べたいずれかの手続をとり、被告人に対し本格的審理を行って本来の防御権を行使し得る地位に置かなければならないのである。これを本件についてみるに、被告人の人間としての存在を終止する死刑を科するに当り、これらのいずれの手続をも採らなかったのであり、これが控訴審であるが故に是認されるとすれば、はじめに述べたもっとも重要な原則がほとんど行われない刑事審判のあることを認めることに帰し、不合理であり違法たるを免れないのである。

(四)刑事審判手続の重要な原則の一つである更新手続と比べてみると前述の理由はさらに明らかである。更新手続は公判開始後に裁判官がかわった場合に行うものであるが、この基本たる考えは、裁判官の関係において直接口頭審理主義を徹底するにあるこというまでもない。すでに終了した手続特に被告人又は他の訴訟関係人の供述若しくは取り調べた証拠についても、本来かわった裁判官が調べ直すという考えに立ち、どこまでも裁判官の直接独自の心証を期待しているのである。従来この本来の趣旨に基く手続につき、訴訟関係人に異議のないこと、又は同意あることを条件として、簡便な省略手続が行われ、刑訴規則にもその規定が置かれたが(刑訴規則二一三条の二第一号但書第三号但書第四号)、これは訴訟経済の見地から無益なくりかえしを避けるためであって、決してはじめからかかる形式的な省略手続を予期しているのではない。のみならず更新において許される起訴状の要旨の陳述を省略した場合でも、被告人及び弁護人に事件につき陳述の機会を与えることを定め、また前に取り調べた証拠について省略手続をとった場合でも、被告人その他の訴訟関係人の意見及び弁解を聴かなければならないことを定めている(前同条第二号第五号)。この趣旨を推し進めれば、審級を異にし全く裁判官がかわった控訴審においては、なおさら第一審で取り調べた証拠につき少くとも被告人の意見及び弁解を聴かなければならないことは自明の理である。控訴審なるが故に刑事審判の重要な原則に基礎を置く更新手続の本旨が特に行われないでいいという理由は全く認めることはできない。以上の点から考えても本件における原審の手続は違法たるを免れないのである。

(五)  以上に述べた理由により、控訴審が刑訴四〇〇条但書によって認められた破棄自判の制度は、訴訟記録並びに原裁判所で取り調べた証拠で直ちに判決することができることをもって足り、必しも常に控訴裁判所において事実の取調を行うことを要するものでないと解することは、一般的には正しいけれども、この趣旨をいかなる場合でも常にいわゆる書面審理をもって足るという解釈にまで拡張することは誤りであると考える。その間にある限界が存するのであって、はじめに述べた刑罰の性質と刑事審判の諸原則との関係から考え、少くとも第一審無罪を有罪とし、他の刑を死刑とし、又は執行猶予を実刑とする場合は、この限界を越える適例であって、本件は正にこの場合に当り、原判決は違法の手続に基くものといわなければならないのである。

(裁判長裁判官 田中耕太郎 裁判官 霜山精一 裁判官 井上登 裁判官 栗山茂 裁判官 真野毅 裁判官 小谷勝重 裁判官 島 保 裁判官 斎藤悠輔 裁判官 藤田八郎 裁判官岩松三郎 裁判官 河村又介 裁判官 谷村唯一郎 裁判官 小林俊三 裁判官 本村善太郎 裁判官 入江俊郎)

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